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南香織 国連事務総長室職員 |
| 小学生の時、アメリカで数年間生活したことがありましたが、日本に帰ることが決まった時、学校の先生に「将来、外交官か国連職員になれば?」と言われました。その言葉がずっと心の中に残り、将来の進路を考えた時にはいつも思い出しました。
大学生だった頃、冷戦が終結し、時代はグローバル化へと走りました。一方、世界は民族紛争や経済格差が広がり、国際機関の活躍が注目を浴びるようになりました。同時に、世の中は情報化時代に変わりつつありました。その背景の下で、私は大学3年生の時に、国連に就職して様々な国際問題を取り上げた広報活動の仕事がしたいと望みました。そして、大学を卒業した後、アメリカの大学院に留学し、国際コミュニケーション学を2年間勉強しました。専攻分野は、政治、経済、社会の開発問題から異文化関係論まで、多方面における情報関係問題、特に情報格差の問題について幅広く取り扱っていました。 また、大学院の研究活動の一環として、私は国連本部の報道官室で約半年間、インターンとして研修を受け、国連の記者会見、事務総長のインタービューの準備、マスコミ対応等について勉強しました。 1993年に大学院を卒業し、日本に帰国しました。就職活動をしていた間、東京の社会福祉協議会でアジア諸国のソーシャルワーカーのための日本研修プログラムの仕事をしていました。そして、1994年から5年間、東京にあるASEANセンターという政府機関で広報担当官として勤めました。私は、そこで初めて東南アジア諸国を視察し、各国の経済開発問題や経済支援について勉強すると同時に、日本と東南アジア諸国の政府間会議の運営や、出版、イベント、報道関係等の広報活動にも携わりました。 1998年に国連の競争試験の募集要項を見て、6年ぶりに広報の試験が実施されることが分かり、応募しました。そして、書類審査を通過した数ヶ月後、1999年度の筆記試験を受けました。当時、私は東京にあるAPO(アジア生産性機構)の広報部に転職しました。国連に入るには、学歴だけではなく、職務経験も必要だと思い、日本で身につけた知識やスキルをどのように国連で活かせられるかを考えました。 筆記試験を受けた1年後に、プレゼンテーションと面接が行われ、2000年3月に最終結果が出ました。その後、赴任先が決まるまで、1年以上もかかり、ニューヨークの国連広報局に正式に採用されたのは、2001年10月のことでした。9月11日のテロ事件の直後でした。国連職員は当時、大きなチャレンジに直面していました。 そのような状況の中で、私は戦略的広報部(Strategic Communications Division)の部長特別補佐官のポストに就きました。当部では、様々な国連のサミットの広報活動や世界各地で活動している国連広報センターの管理をしていましたが、私がいちばん係わっていた大きなプロジェクトは、情報委員会の仕事でした。情報委員会の加盟100ヵ国の政府は、毎年国連本部で国連の広報対策や今後の方針について10日間協議し、国連総会に提出する決議を起案します。私は毎日残業して議長の資料を作成したり、決議案の作成を手伝っていました。 2年後、私は広報局の特別事業室に異動しました。そこでは、「世界エイズの日」や「人権の日」等のイベントの企画の他に、国連本部で初めて行われたアメリカ映画の撮影の仕事にも係わりました。 しかし、異動したわずか5ヵ月後に、突然アナン事務総長室から電話があり、仕事のオファーをいただきました。そして、新しく設置された事務総長のスケジュール管理室に移ることになりました。当室では、事務総長の日常のアポイントメントの他に会議や出張のスケジュール調整及び情報収集の総合管理を担当しています。事務総長の出張前は、室内の緊張感が一段と高まり、副官房長の指揮命令に従って、徹夜で仕事をすることが多いです。 国連では最近、職員の能力開発を促進するために人事異動が増えています。色々な仕事が経験できて、職場生活の変化も多くなりましたが、広報は多方面において適用できる専門分野であるところに魅力を感じます。 *** 南香織(国連事務総長室職員) |