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平川純子 国連薬物犯罪局条約部犯罪防止刑事司法官

「日本人の国連職員はなぜ少ないのだろうか?」



 ある日、某国からの外交官に「日本人の国連職員はどうして少ないのかしら?あと、どうすれば日本人の国連職員は増えると思う?」と尋ねられました。私は心の中で『お前はなんでそんなに日本語がペラペラなんだ』と思いながら、「うーん、やっぱり日本人の英語力の問題かな」と日本語で堂々と答えてみせました。…しかし、本当に英語力だけの問題なのでしょうか?

 さて。ご紹介が遅れましたが、私が今回国連競争試験の体験談を書くようにご指名を受けた平川です。私が勤める国連薬物犯罪局はここ2年の間に競争試験を通った日本人を私も含め4人も採用するなど太っ腹なところを見せていますが、その4人のなかでなぜ私が代表部国際機関人事センターI氏から直々のご指名を受けたのでしょうか。それはもちろん、私が出世頭だからさ、えっへん、と答えたいところですが、それは絶対ない。自分で否定するのも悲しいですが、それは絶対にありえません。では、なぜか。それは私が他の3人とは違って帰国子女でもなんでもなく、ずばり英語が下手だからでしょう。帰国子女でなく国連職員になった日本人は他にもいますが、高校時代に英語の偏差値が50だったのは流石に私ぐらいのはずです。「それじゃあ、さぞかし努力をされて今は英語がおできになるのでしょう」というのも間違いなのね。なんたって私の直属の上司の主な仕事は、私が書いた文章で冠詞(aとかtheのことね)が正しく使われているかをチェックすることだったりするわけですから。ちなみに私の仕事は(語学力が必須のはずの)法務です。

 川崎で生まれ育ち、家族・親戚のなかで海外勤務経験があるのは太平洋戦争中に南洋で戦死した祖母の弟ぐらいの私が、どんなずるい手を使って競争試験をくぐり抜けて今の仕事をゲットしたのかというのは、国連の仕事に興味を持ってくださって今このホームページを開いている皆さんにも興味深いことでしょう。本当は引退後の小金稼ぎにこのネタはとっておきたかったのですが、今回ちょっとでも皆さんの役に立てればと思い、さわりだけでも書いてみることにしました。

               第一関門・書類審査(2001年3月)
 まずは書類審査があって、ここを通過した人だけが筆記試験を受けることができます。書類審査に提出する履歴書にかんしては、「多様性を重視する」国連のなかで、これほどアメリカ的価値一辺倒なものはないと思います。日本の履歴書が商品仕様書ならば、アメリカの履歴書は商品カタログ(しかも深夜の通販CMみたいなやつ)です。私の履歴書は、アメリカ人の友人によって全面的に改稿され、履歴書の本人である私にも「これは誰のことなんだ」と思わせる出来に仕上がっていました。たとえば。
(改稿前)「私は**先生の『***』という本のリサーチアシスタントをしました」
(改稿後)「私は『***』という本のために、日本国内の人権状況について検証しました」
…先生の名前を落としてしまうと、まるで私が『***』という本の執筆者のようです。この、誇張と嘘のぎりぎりのラインを守りながら、しかも英語(または仏語)で書くという技術は、実は日本人にとって最大の難関じゃないかと思います。


               第二関門・筆記試験(2001年5月)
筆記試験は指定された会場で受けます。私は当時アメリカにいたのでニューヨークで受けました。さて、実際の試験の内容については、「もし日本語で解答することができたら…」と思わず仮定法で唸りたくなる問題レベル。いやしくも国連の人権職に応募しようとしている人間に「国連人権高等弁務官とは何か」って問題はないでしょう…という話を先日、私が受けた試験の採点官だったという方と話していたら、曰く「そうは言っても、その問題に答えられなかった受験生が結構多かったんだよね」。たぶんに国連競争試験の難易度は誇大広告されていると実感させられる心温まるエピソード。

筆記試験から面接までの間がこれまた長い。2001年度はテロの影響ということで筆記結果発表が遅れましたが、よく考えると当初の予定では2001年8月に発表予定だったはずなので、予定通りやっていればそもそもテロの影響なんか受けなかったはずでは…?

               第三関門・面接(2002年1月)
筆記試験の結果発表後10日程度で面接日・面接会場が一方的に指定されてきました。が、その面接日が、予定日前日にいきなり延期に。理由は「面接官の一人が(面接地に向う)飛行機に乗り遅れたから」。非常に国連らしいエピソードです。なお、この時に立て替えた面接会場までの交通費の払い戻しに11ヶ月かかったのも、今となっては良い思い出です(と言っておきましょう)。ところで、私の場合は、あくまで面接であって口答試験ではありませんでした。「専門知識はすでに筆記試験で図っているので、面接はあくまで人柄重視」と面接官の一人が公言していました。その人柄重視の面接で聞かれたのは…「あなたはチームワークができますか」「多国籍のチームワークについてどう思いますか」「チームの一人が仕事をしなかったらどうしますか」。私はよっぽどチームワークができない人間だと思われていたのでしょうか。

ちなみに、私が受験した2001年度人権分野は、面接に呼ばれた受験者全員(22人)が合格しました。この時点で競争試験なんて楽勝と思った私は自分の過ちにすぐ気づくことになります。

            そして最後の関門(面接合格2002年3月;採用決定10月)
国連競争試験は面接合格がゴールではありません。合格して合格者名簿(ロスター)に掲載されたあと、実際のポストに採用されるまでが競争試験プロセスなのです。家に帰るまでが遠足なのと同じです。合格すると、あなたは人事部から新しい履歴書と自己アピール文を出すように言われます。これらがロスターに掲載されて、あとは履歴書を見てあなたに興味を持った国連事務局の部局が「いつか」連絡をしてくるのを待つだけです。ただし国連の言う「いつか」というのが、私たちの生きているあいだとは限りませんが。書類審査とならんで、このロスター期間の不安定性、そして書類審査と違いロスター期間には出願者本人がコントロールできる要素があまりにも少ないことが、競争試験への日本人出願者・合格者を減らす要因になっているのではないかと思います。(私もこのロスターによって散々振り回される結果になるも、紙幅の関係で詳細は省略)。

…と、このような紆余曲折を経て今に至ったのです。ところで、最後に私が声を大にして言いたいのは、「試験は出願しないと100%受からない」ということです。なに当たり前のことを言っているのだとお思いでしょうが、逆に言えば「出願すれば、たとえどんなに見込みが低くとも合格する可能性がある」ってことです(32歳以上の人ごめん。P-2競争試験の対象者が32歳以下なので君たちは出願しても100%無理です)。なんでこんなことを書いているのかといいますとね、国連どころか、かって大学合格だって危うかった(なんたって英語偏差値50ですから)私は、当時予備校などで他校の高校生から「あんたの偏差値で(または「あんたの高校のレベルで」)大学なんか合格できるわけない」といわれたことも一度や二度じゃあなかったのですよ。で、自分の身の丈に合わないところばかりを受験して、常に周囲の予想を裏切り合格してきた受験界の奇跡とも呼ばれる私は、自分より能力の高い人が、そういう周囲からの冷静な声に耳を傾けた結果、試験を受ける前に戦線離脱してしまうのを何度も目撃しました。そんなわけで、大学に限らず試験を受ける際に大きな障害になるのは、実は周囲からのこういう妙に客観ぶった発言なのだと強く思うようになったわけです。そして最近私は、日本人が競争試験を受けるのを躊躇してしまう理由というのは、こういう客観的かつ親切ぶった発言の多さなんじゃないかなあなんて、そしてそれはすごく勿体無いなあなんて思い始めているのです。

平川純子 (国際連合薬物犯罪局条約部 犯罪防止刑事司法官)
02年3月国連競争試験(人権)合格。03年1月より現職。