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  帯刀 豊(元JPO、現在UNHCRスーダンダルフール勤務)


はじめに
私は現在、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のProtectionOfficerとして、スーダンのダルフールに勤務しています。JPOとしてはそれ以前の3年間、2003年11月から2006年の11月まで、インドのニューデリーにてAssociateProtectionOfficerとして働いていました。私が大学を卒業したのが1992年のことでしたから、卒業後、実に10年以上の歳月が経っていたことになります。今この文章を目にしている方々の中にも、私と似たような境遇の方が多くいるのではと思いつつ、幾らかでもそうした方への動機付けの参考になれればと、以下の文章を書いています。

JPOに至るまで
国連で働くということを実感として考え始めた時には、私はすでに20台の若者ではありませんでした。学生時代から国連で働くことを念頭に研鑽を積んできたJPOの友人たちに言わせれば、遅すぎるスタートでした。大学時代に国際法や国際政治を好んで学んでいるので国連に興味がなかったわけではないのですが、当時はむしろ、国際支援や人道というよりも、国境を越えた人やモノ、金の移動、国家という枠組みの意味が薄れていく過程全般に強い関心を持っていました。結果、学士論文の題材は、’多国籍企業を巡る法的枠組の限界と展望’であり、就職先に選んだのは国際金融に強い銀行でした。

銀行での5年間、私は主に国際金融市場のモニターと対企業財務アドヴァイスを行っていました。当時は、’ファンド筋’と呼ばれる民間主体が巨額の資本を瞬時に動かし国家を相手に大立ち回りを演じていた時でした。いくつかのアジアの国々で長年の’開発’の努力が、ボタン一つのお金の流れで踏み躙られていくのを目の当たりにしました。私は今でも、例えばインドへの周辺諸国からの人々の流入やスーダンでの紛争の性格と見通しを考える場合にも、経済の視点やモノ・金の流れのダイナミクスを忘れることはありません。

銀行では、その他いろいろと鍛えられました。接客と人間関係、資料作成と会議運営、計画策定とマネージメント。今も日々の業務で、こうしたことに長じた人とよくよく話しをしてみると、何らかの民間企業で長年経験を積んだ人が多いような気がします。具体的な資格や語学能力に比べ、こうした能力は抽象的に思われるかもしれませんが、JPOから正規採用、採用後の昇進の様子をよく観察してみると、長い目でみてこうした能力が大きくモノをいうことは間違いないようです。多くの実務のテクニックも学びました。WORDでの効率的なレポート作成。EXCELでのDataBase作成、グラフ・ビジュアル化、マクロ計算式の設定。PowerPointでの効果的なプレゼンテーション。こうしたことをしっかり身に着ける時間は、国連で働き始めてからではなかなか見つけにくいものです。結果、すでにできる人がやってしまう、従って重宝される、ということにもなります。

その後、私は、外務省で2年間(銀行からの出向)、国際開発支援を取り扱うことになります。DAC(OECDの開発支援委員会)担当になるのですが、当時DACはもとより、ODAそのものについてもおぼろげな知識しかありませんでした。まして自ら現場での経験もなく、国際会議の場で高度な開発論争を繰り広げるわけですから、当時の私はまさに無我夢中でした。

外務省ではODA政策の立案から省内・省庁間調整、予算折衝までのすべての過程に関わりました。その過程で、仕事を円滑に進めるうえで事前の’根回し’がいかに重要であるかを痛感しました。また国連職員として、ドナーの意思決定過程に通じ、どこにいつ、どう働きかければいいかを理解していることは大きな財産です。更に、開発目標、紛争後復興支援、参加型開発とグッド・ガバナンスなど、当時DACで取り扱われていた開発議論の多くは今でも私の仕事上の理解の礎になっています。

外務省での経験を通じ、私の興味の中心はモノ・金から人へとシフトし、やがて私は職を辞し、アジア経済研究所開発スクールとイギリスの大学院で計3年間、開発、人権、国際犯罪、難民問題を学ぶことになります。この3年の間で、私の視野に国連の選択肢が初めて浮かんでくるのですが、さらに悠長に1年間、ハーグの戦犯法廷とフランス留学を経験した後に、漸く国連で働く意思が固まりました。

JPO期間とその後
UNHCRを選んだのは直近の大学院での専門を考えれば妥当ではあったのですが、プロフェッショナルに準備万端であったと言えば嘘になります。インドでの3年間を専ら、ミャンマーやアフガニスタン、ソマリア、スーダンといった国々からの庇護申請者との面接、難民性判断のレポート作成に費やすのですが、赴任前にそうした実務上の経験はほとんどありませんでした。従って、赴任後2,3ヵ月は人より1時間早く出所して、人より1時間遅く退所する日々が続くのですが、やがて気がついたのは、仕事をするということについては実はこれまでと何ら違いはないということです。もちろん、国連なりのユニークな仕事の回し方や職場文化はあるのですが、そしてそれが嫌いで国連を去っていく人もいるのですが、そうした目新しさもその気になればこれまでの職場での経験の応用ですべて対応が可能だということです。思えば日本の企業、省庁でも、2,3年毎に異動を繰り返し、時にはびっくりするような新しい仕事を突然任されるのが常ですが、JPOとしての最初の勤務もそれと大きな違いはないということです。JPOとしての2,3年間は短距離走というよりもむしろマラソンに近いように感じます。スタートダッシュ(JPO赴任前にすでにその分野での専門の知見を有すること)も大事ですが、むしろ分からない事に直面した時に、素直に周囲の人の言うことに耳を傾け、周りの協力を得つついかに効果的にものごとを吸収していくかということの繰り返しがより重要であるように思います。そこに自分なりのユニークな貢献を加味できれば言うことはないでしょう。こうした人はポテンシャリティーの高さを自ずと感じさせるものですし、JPOとしてはそれで十分です。誰もJPOに完成品を求めていないのです。自分を完成品だと思っているJPOがいるなら、むしろその方が問題でしょう。

JPOから正規採用されるにはどうしたらいいか。多くのJPO希望者が頭を悩ませる問題でしょう。過去の統計からJPOが正規採用されやすい国際機関を選ぶとか、本部に近い職場で常に中枢に顔を売っておくとか、いろいろ戦略はありうるでしょう。しかしあえて言うならば、正規採用されるためにそれほど関心のない職場を選び、現場での土に塗れた仕事の成果を蔑ろにしてまで上の方に綺麗な顔を見せることに没頭するならば、それはまさに本末転倒の極みでしょう。更にいえば、国連はそうまでして残りたいと思うような、絶対的に魅力的な職場ではなかろうということです。興味をもった事柄について国連を通じたアプローチが最も適しているからJPO、国連を選ぶのであって、そのうえで日々の仕事をきちんとこなしていくならば、自ずと実務能力、専門性が養われ、正規採用の道も開かれることでしょう。何らかの偶発的な理由(実は国連ではこれが多い)で実力に関わらず正規採用とならなくても、充実した日々を過ごすならJPOとしての経験は決して無駄にならないはずです。私の場合、正規採用はされたものの、新たな仕事は砂漠の真ん中で難民ならぬIDP(国内避難民)の保護を行うという、インドの都会での経験からはかけ離れたものでした。後に上司から聞いたところによると、私を薦めるにあたり、良質なレポートや資料を作成する、周囲の知見を吸収しつつ簡潔かつ要領よく言いたいことを伝える、計画を遵守しチームワークの流れに乗る、といった、いわば’社会人としての礼儀’を強く考慮したということです。私が上司であってもそうすることでしょう。

JPOについて(まとめ)
これまで本文では、私のJPO以前の、一見JPOとしての仕事に関係のない様々な職場での経験が、実はいかにJPOとしての仕事の質の向上に役立ったかということを特に強調してきました。とはいうものの、だからといって国連希望者が常に前もって民間企業や省庁勤務を経験すべきであるなどと主張するものではありません。10台の頃から国連に目覚め、以来国連で働くことを目的に過ごし、現在若くして国連で活躍している方々を私は少なからず知っています。私の趣旨ははじめに述べたように、何らかの職場を長く経験したあげく、’結果として’一見それとは関係のない分野で国連に興味を持つに至っても、しっかりした仕事をしてきたという自負があるならば決してスタートが遅すぎることはないということです。もちろん、自分のなかでの一貫性というものがありますから(私の場合、’国境を超えた人、モノ、金の移動と国家という枠組みの相対化’という学生時代以来の縦軸)、折に触れうまくそれを説明する必要はありますが、それがある程度説得力をもつならば、その後の実務的な問題や直接的な専門性の不足は努力次第でどうにでもなる、ということです。JPOは、そうした人に道を切り拓く制度であって欲しいし、また私はそうした人にこそJPO制度をうまく活用し、ユニークな視点、スキルをもって国連に新風を吹き込んでほしいと願っています。  



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