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JPO体験記(2008年3月)

加藤 伊織
UNDPラオス事務所 貧困削減ユニット・プログラムアドバイザー
JPO、“ポストJPO”、そしてLEADとして、UNDP本部アジア太平洋地域局に2003年8月から2008年2月まで勤務。2008年3月より現職。
   



 「2015年までに『ミレニアム開発目標』を実現するために、全体でどれだけの費用がかかるのかを洗い直し、その財源を工面するための中長期の戦略とマクロ経済の枠組みを整え、次の国家社会経済開発五カ年計画の礎にしましょう。UNDPはすでにこの分野で他国政府を支援した実績があり、準備が整っています」「もっと具体的には?」。計画投資省の局長らと、膝を詰めた話し合いが進む。外の気温は、体温を超えている。ハンカチで額の汗をぬぐいながら、ふと、10年以上前もよく日本で行政庁の高官と同じように話し合ったが、全く違う立場だったなあ、と感慨を覚えた。

 外務省国際機関人事センターよりこのほど、以下の諸点について、意見を寄せて欲しいとの依頼を受け、快諾させていただいた。あくまで僕自身の――どちらかと言えば特殊で限られた――体験談に基づく私見であるゆえ、すべての機関や分野にあてはまる一般論に敷衍はできないが、JPOという選択肢を含め、これから国際機関に就職を志望している後進の方々に少しでも役立てば、と祈念しつつ筆を執った。冗長さをご容赦いただきたい。

1.JPOを受験しようとした(国際機関勤務を希望するようになった)きっかけ
 僕は、キャリア転向組の一人だ。JPOになる前まで、ずっと開発援助の現場に身をおいていたわけではない。日本の大学を卒業した後は、全国紙の記者になった。いずれは国連報道か戦争報道に携わりたい、という夢があった。しかし次第に、「伝える側」ではなく、僕も、紛争や貧困にあえぐ人たちの生活環境改善のための営みを支援する現場で「当事者」として働きたい、という思いに抗えなくなった。国連かNGOで働こうと思い立ってメディアを辞したのは、新聞記者になって6年後のことだった。
 国連に興味を持ったのはしかし、社会人になってから初めてではない。かねて、国際の平和と安全の確立、そして構造的暴力の除去のためにはどういう仕組みや方法が有効なのかという問題に関心があった。学部時代も最上敏樹教授のもとで平和研究を専攻し、自然と国連に興味を持つようになっていた。コロンビア大学の修士課程でも、国連を通じた紛争解決や平和構築を研究するかたわら、地の利を生かしてニューヨークに本部のある国連事務局やUNDP、UNICEF、UNFPAといった国連機関の職員と親交を深めた。
 JPOという仕組みを知ったのも、この修士1年目のときだ。JPO制度は日本人が――実際は日本人に限らないが――国連に入るための数少ない門戸の1つであること、知り合った邦人職員の大勢が実際に元JPOであることを、知った。躊躇なく僕も、正式名称「アソシエート・エキスパート(AE)等派遣候補者専攻試験」に応募することにした。

2.JPO受験に向けて、どのようなキャリアパスを形成してきたか
 JPOに合格するために、修士1年目の応募当時に僕に決定的に欠けていたのは「経歴」だった。JPO受験に限らず、どんな組織や会社への就職・転職でも、応募書類を書いたり面接試験に臨んだりするときに最も大切なのは、過去・現在・未来を、1つの連綿とした「ストーリー」として紡げること、だと僕は考えている。未来の照準が、例えば仮に「UNDPでアジアの平和構築に従事したい」という志望だったとしよう。願書や面接では、なぜUNDPでアジアの平和構築に従事したいのか、具体的にどんな職域や事業に興味があるのか(いずれも未来)についてアピールする以外に、「だから学部時代に平和研究を専攻した」(過去)、「今は大学院で紛争解決論を専攻している」(現在)といった点を強調できるほうが、納得されるだろう。僕もそこまではカバーできていた。

 どこの国連組織でも必要な広報官を目指すなら、新聞記者だったという僕の職歴は、ある程度有意味だったかもしれない。しかし僕が携わりたかったのは――今もそうだが――アジアの開発途上国で平和構築や貧困削減といった構造的暴力の除去に従事する現業部門だった。僕はそれにもかかわらず、それまで途上国で働いた経験どころか、住んだことすらなかった。「インターンシップ」を、どこの国で、どの機関で、どの分野でするか。これがJPO合格のために最も戦略的に大切な選択と考えたのは、こういった事情からだ。

 僕が通ったコロンビア大学国際関係・公共政策大学院では、インターンシップで得られる単位が修了の要件の1つにもなっていた。修士の1年目と2年目の間の3カ月の夏期休暇を利用し、アジアの開発途上国にある国連機関の事務所で平和構築に関連したインターンシップをするため、僕はアフガニスタン、東チモール、カンボジアを担当するUNDP、UNHCRそしてUNICEFの事務所に直接、校閲を重ねた志望書と履歴書をEメールとFAXで送った。2002年の正月休みのことだ。運良く、しばらくしてUNDPカンボジア事務所の民主的統治(ガバナンス)部門から、インターンとして受け入れるという通知をいただいた。

 カンボジアでは、紛争後の平和構築の一環として小型武器削減のための案件形成を任されたり、援助協調に携わったりした。事務所を代表して各地方の視察に行く機会を与えられ、人間貧困(human poverty)とは何を意味するのか、その実相を目撃し改めて衝撃を受けた。ポル・ポト政権下での虐殺から20年以上、和平協定締結と国連平和維持活動からも10年以上経った今でも、真の意味の平和構築や民主的統治の確立のためには課題が山積している状況を体感した。JPOの最終面接に呼ばれる知らせを聞いたのは、そのころだった。

 最終面接ではもちろん、このUNDPカンボジア事務所でのインターンシップの話を強調した。話の80%はその話題だったかもしれない。そうすることで過去・現在・未来を断絶の無い1つの「物語」として提示し、「なぜ新聞記者から、国連の現業部門なのか」という理由付けに齟齬の無いように腐心した。首尾よくJPOに合格させていただいのは、それが奏功した結果だと思う。

3.JPOとして派遣されてからの勤務状況・感想
 5月に大学院を修了した僕は、アパートを引き払い荷物も一切合財搬出して日本に一時帰国し、外務省からの派遣先の提示を待った。UNDPでアジア(特に東南アジア)で平和構築に従事したいという希望は伝えてあった。しかし「同一事務所に2人以上のJPOは同時に派遣しない」という原則もあるようで、すでに各国のUNDP事務所に日本人JPOが派遣されていた東南アジアに行ける公算は高くなかった。1年以内に派遣先が決まらなければ、JPO候補としての資格を失う。本部のアジア局でのポストのオファーを受諾したのは、そうした諸々の状況を吟味した結果だった。アジアで働くわけではないが、アジアに携わり続けられる――NYを離れてたった3カ月後、僕はまた摩天楼に立ち、マッチ箱のような国連事務局の筋向いにあるガラス張りの高層ビルの回転ドアを押して入った。そのときは、それから4年半もの長い間、UNDP本部23階に通い続けることになろうとは思いもしなかった。

 UNDPは「世界」「地域」「国」の3つのレベルで事業を展開している。UNDPの強みは世界のほぼすべての途上国を網羅した国別プログラムだ。僕がJPOとして最初に与えられたのも、マレーシアやモンゴルなどの国別プログラムのサポートと管理・監督だった。UNDPの業務は――過度とも言えるほど――地方分権化されている。国事務所の所長には、事業運営、調達、人事など重要なさまざまな領域で多大な権限が付与されている。本部が命令・指示し、国事務所がそれを履行するような上意下達の仕組みではない。事務所長は言ってみれば、一国の主である。それでも、拠出国の納税者の貴い浄財が最大限効果的に使われることを担保するには、第三者の眼で国別プログラムの計画立案・履行状況をつぶさにモニターすることが必要だ。それが本部の担当者の役目だ。一方で、いくら万能に近い権限が与えられているとはいえ、人材も限られており本部から物理的に遠い各国事務所は、毎年のように更新される本部の施策方針や規則、制度に適合した形で案件形成・執行、財務・人事運営をするために、本部のサポートを必要とする。本部からは「別の事務所では、こんな解決策で対応した」といった情報も提供できる。だから、僕の仕事の大部分は、国事務所の所長・次長とのEメールや電話のやり取り、そして担当国への出張などで占められた。

 JPO2年目は、僕のその後を決する節目だったかもしれない。年末はどこの国の政府職員も休みがちなのでUNDPの国事務所でも仕事が緩やかになる。そのため、2004年の暮れ、本部23階にあるアジア太平洋地域局でも、各課に1〜2人を残し、ほとんどの局員が年始年末休暇で不在で、閑散としていた。アジアとアフリカの12カ国を襲い、死者・行方不明者が30万人近くに達するという未曾有の犠牲者を出した地震と大津波がインド洋スマトラ沖で起きたのは、そんなときだった。東南アジア課の課長代行だった僕――このとき同課には僕しかいなかった――は、情報収集や即応事業の立ち上げ、事務局の国連人道問題調整事務所(OCHA)との会合などに追われた。年明けには、本部に立ち上がった「UNDP津波タクスフォース」の事務局という重要な任務を仰せつかった。

 総裁に代わって同タスクフォースの委員長に付いたアジア太平洋局長が、UNDP史上最大のオペレーションとなった津波復興支援を牽引する全局面をバックアップするのが、事務局としての僕の役目だった。毎朝9時からのタスクフォース会議を主宰する局長のため、日々明らかになってくる被害状況や、各被災国にあるUNDP事務所を含む国連ほか諸ドナー、NGOによる復興支援事業の進捗や、義捐金の規模や流れの詳細をまとめる。さらに局長のほか総裁、副総裁のためのブリーフ資料やプレゼンテーションの草稿をつくり、日本を含めUNDPによる津波復興を支援する各拠出国への定期報告書をまとめる。スリランカに出張もし、政府軍とタミル・イーラム解放のトラ(LTTE)の内戦に加えて津波という二重被害をこうむった北部を視察した。UNDPの1年間の実績をまとめた冊子づくりを監督して年末に刊行。こうして2005年はあっという間に過ぎた。

 こうした働きが評価されたのだろう。JPOの契約が切れる2006年、局長の特別補佐官に任命された。彼が担当するのは津波だけではない。アジア太平洋地域局には37カ国を担当する計25のUNDP事務所がある。アフガニスタン、東チモールといった紛争(後)国、急激な経済成長をとげる中国やインド、民主的統治への移行に挑戦するネパールなどのほか、朝鮮民主主義人民共和国やミャンマーといった国々も抱える。貧困、紛争、開発と聞くとアフリカを連想する人が多いが、実は世界の貧困層の3分の2がアジアに集中し、国家間あるいは国内での格差も広がるばかり。紛争やその火種も多い。当然、局長の日常は激務だ。そんな局長の日常の対内外の会合のための資料やスピーチ原稿作り、出張やハイレベル会合の調整などが僕の職責で、1年のうち130日をアジア、欧州などニューヨークの外で過ごした。国連事務次長補も兼ねる局長の補佐官として、そうでなければ僕のレベルではまず会えないような人たちと知り合い、他局や各事務所の幹部たちとやり取りし共に仕事をしてネットワークを広げ、中枢でUNDPという組織がどのように意思決定するのかを知った。UNDPが途上国政府と援助国の間に立って調整する「国連の外交」も経験した。重責がこたえたのは確かだが、あの濃厚で貴重な1年の経験と機会を与えてくれた局長に感謝している。

 同じ年に、若手を対象とした幹部候補者育成のためのプログラムであるUNDP Leadership Development Programme(LEAD)に合格し、その最初のアサインメントとして2007年は、同じ局内のアジア太平洋地域プログラム課に配属され、アジア太平洋の3つある地域事務所へのサポートと管理・監督のほか、2008年からの新4カ年事業計画の策定に携わった。たとえば地域統合の推進、環境保全、人身売買の撲滅、災害予防など国境をまたぐ問題のほか、汚職やジェンダー、エイズといった政治的に微妙な領域では、複数国を対象とする地域プログラムが「地域公共財」として解決策や選択肢を共に編み出していく方法が、より有効だったり効率的だったりする。そのため、UNDPの本道である国別プログラムを補完する役目を司る地域プログラムにかかわれたことは、視野や見地を広げる意味で良い経験になった。

 LEADの2つめのアサインメントとして、ついこの3月、ラオス事務所に着任した。また東南アジアで働きたい、という夢がかなった。JPOになってから6年目ではあるが、決して遠回りだったとは思っていない。本州ほどの面積に兵庫県ほどの人口をもつラオスは、途上国の中でもとりわけ発展の遅れた後発発展途上国(LDC)で、しかも内陸国。国境を接するのは、中国、タイ、ベトナムなど成長著しい国ばかりだ。数少なくなった社会主義の国で、1980年代後半から市場経済体制への移行に努めているが、1人当たりGDPは487米ドル(2005)で日本の約75分の1。人間開発指数(HDI)もASEAN諸国で最下位で、2015年までにミレニアム開発目標(MDGs)のすべてのターゲットを達成するには課題が山積している。それだけ、仕事のやりがいのある国であり、わくわくしている。

 「JPOで本部に配属されるのと現場の事務所に配属されるのとどちらがいいですか」としばしば聞かれる。答えるのは簡単ではない。本部で働くのも現場で働くのもそのどちらにも良い部分があり、また限界もあるからだ。共通しているのは、下の項でもっと詳細に書いたように、職場の内外で認められるような仕事をすることが枢要だということだ。それが「ポストJPO」への鍵だと思う。

4.JPO後に引き続き国際機関に残っていくために必要と思うこと、就職活動等について
 JPOを招き入れるのに、国連機関側は金銭面の心配をする必要がない。給与を含め、スポンサーする政府(邦人JPOであれば日本政府)が全額負担するからだ。JPOの「卒業」後も、同じ――あるいは別の――オフィスに残るためには、国連側に、金銭負担して雇用しても構わない、むしろ「こいつに今辞められると困るから雇い続けたい」と思わせるだけの資質があると納得させる必要がある。それを2年という決して長くはないJPOの任期中に成し遂げるのは、容易ではない。

 周りには、口が達者で、もっとアピールのうまい同僚もいるだろう。何カ国語も操る同僚に気後れするかもしれない。赴任地の政治経済的情勢や文化、歴史についての知識では、長年勤めているナショナル・オフィサーにかなわない。自分の担当する領域についての知識も、その道の専門家には太刀打ちできないだろう。国連側には常に、財政負担無用の新たなJPOかUNVを求めたり、JPOより給与が低いナショナル・オフィサーで補ったりする選択肢がある。これを打開するには、自分に「付加価値」や「比較優位」をつけるほかない。

 そのためのアプローチは人によって違うだろう。僕に限って言えば、これまでの勤務評定や上司らからのフィードバックを総合すると、仕事が速く緻密で正確である、情報収集と分析能力に優れ、的確なレポートやブリーフをまとめられる、協調性があり愛想が良くチームで仕事ができる、残業をいとわない、といった点が評価されているらしい。誤解を恐れずにあえて言えば、実際に僕にこのような資質があるかどうかは問題ではない。働きぶりを通して、組織にこのような資質を持っているという印象を与えられるかどうかのほうが重要だ。実際、これらのポイントを稼ぐのは日本人にとってはさほど難しくない、と僕は思う。そして、仕事ぶりは、いつも誰かが見ていてくれている――良い仕事も、まずい仕事も。

 ほかに国際的な職場――国連に限らず――で重要なのは、「考えていること、伝えたいことを、より効果的に伝える能力」を培うこと。これはスキルなので、ある程度、訓練でカバーできることを知った。あとは、常に「興味」を持ち、新たなことを吸収・消化すること。自分の所属機関、専門領域、赴任地、相手政府、ドナー…何でもいい、知識欲を持って、自分のアンテナを張っておくことが大切だ。 また、自分の職場の「外」にネットワークを広げることも、自分の内実をより豊かにすることにつながる。新しいキャリアの方向性が見つかることもあるかもしれない。

 実際、僕もJPO卒業前後には、UNDP以外の国連機関やNGO、研究機関にも志望書を送り、面接も受けに行った。ほかの機会でも触れたが、国際の平和や安全、生活水準の向上といった国連憲章に謳われた諸々の価値や規範の増進に貢献する生き方は、国連職員だけではないと思う。外交官になって国連を舞台に外交に励んだり、NGOやボランティアの立場で国連と協働したり、学者として国連を研究したり、あるいは、記者として国連報道に従事したりする道もあるだろう。いずれにしても、JPOとして国連で働いた経験は「ポストJPO」のキャリアに非常にプラスに働くはずだ。僕個人は今は、できるだけ長く国連を舞台に働きたいと考えている。その夢を乗せた帆船はまだ出航したばかりだ。JPOという制度が無ければ、それに合格しなければ、まったく違う民間の分野にいた僕には、スタートラインに立つ機会さえ無かっただろう。日本政府・外務省に心より感謝している。



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