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・ JPOを受験しようとした(国際機関勤務を希望するようになった)きっかけ
高校1年の夏休みにアメリカでホームステイをした時から漠然と将来は国際的な仕事をしたいと思っていた。大学に入り、国際法の授業で先生が国連での勤務のご経験を話され、「これだ」と強く思ったのを記憶している。授業の帰りに「国際公務員になるために」という雑誌を買い、どうやったら国際公務員になれるんだろうと調べたところ、JPOというのが一つの方法であることを知った。
・ JPO受験に向けて、どのようなキャリアパスを形成してきたか
購入した雑誌に書いてあるJPO合格体験記を見ていると、「学部卒業→職務経験→大学院→夏休みのインターン→JPO」というのが一般的なキャリアパスであるようで、18歳の私には非常に長い道のりに感じられた。近道は無いかと大学の教授に聞いてみるも、無駄なことであった。国連は「即戦力」を求めている為、その最低限の即戦力を身につけるためプランを立てた。
まず最低限英語が必要であるのは明らかであったので、1年間アメリカの大学へ交換留学することにした。留学中の様々な国籍の学生との交流からますます国際公務員になる意志を固めたものの、その頃は漠然としたイメージしか持っていなかった。とりあえず修士号取得が国際公務員になるための最低条件であることは大学の教授からも教わっていた為、帰国後は大学院に入る為に必要な「いい成績」を取る為に試験勉強だけは完璧にする傍ら、休みにはできるだけ多くの国へバックパッカーをしに行った。
「国際公務員として何ができるのか」、そんな漠然とした疑問を抱きながら世界45カ国以上を渡り歩いていった。その中で、大学3年の時に訪れたインドはその後の私が歩むべき道を作った。そこは胸をひきさくような様相を呈していた。骨と皮になるまで飢え貧窮にあえぐ人、縁石の上に排便をし、壁に向かって敷いたぼろ切れに縮こまって眠っている人。世の中の絶対的な不公平を目の当たりにし、散々だまされた大変な旅であったにもかかわらず、帰りの飛行機の窓から遠くなって行くインドの地を眺めながら、「また戻ってくる。」となぜか強く思った。この頃から、将来は国際公務員として途上国のために何かしたい、と思い始めた。
大学卒業にあたり、「まずは世界の資金循環を見てみたい。また、日本の社会で学べることを学びたい。」そう思い邦銀総合職社員としてキャリアをスタートさせた。希望通り国際業務部配属となり、欧米、アジア主要国間の国際証券取引に従事した。早朝から深夜に及ぶ業務は決して易しいものではなかった。しかし複雑な国際証券業務の仕組み、政府との関わり、ポートフォリオの組み方等々、学んだことは数知れない。そして何より、強者がさらに強くなる世の中の仕組みを認識させられた。
3年半の勤務の後も国際公務員になるという目標は消えなかった。当時のプランであった大学院進学を果たすべく、入学の為の準備を始めた。合格した大学院の中から、大学時代の恩師である教授の勧めでフレッチャースクールに入学した。フレッチャーでは「社会開発」というテーマを軸に開発経済学、人権法、政治経済学、緊急人道援助、NGOマネージメント学などを学んだ。それらを学んでいる中で、HIV/AIDSが開発に与える影響、脅威、そして独特の複雑さに気付き、魅せられた。夏休みにはインドに再び戻り、国連開発計画(UNDP)のHIV/AIDSに特化した地域事務所でインターンとして3ヶ月間働いた。「あ、本当に戻ってきた。」と思うと同時に、国際公務員となる日が近くなってきたと強く実感したのを記憶している。
大学院での勉強、インターンとしての経験を経、ここではっきりと「HIV/AIDSの分野で国際公務員として働いていきたい。」と具体的な目標ができた。そして大学院卒業後、無事JPO試験に合格した。合格通知を受け取ってからも派遣まで時間がかかるということで、JICAの長期専門家として1年間マラウイの保健省で勤務した。仕事を通じ多くの国連関係者と知り合い、ウェブページには乗っていない内部のことをたくさん見聞した。そして最も現場主義が徹底しているであろうWFPに魅せられ、2006年7月にWFPのHIV/AIDS
Unitで勤務を開始した。18歳からの思いがかなった時でもあった。
・ 将来国際公務員を目指す方々へ
確固たる思いを持って計画的にキャリアパスを歩んでいけば必ずJPO試験は受かります。その過程では遠慮を捨て、貪欲に情報収集をしながら自分の歩む道を固めていくことが大切なように思います。頑張ってください。
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